ラスクラスのプログラミングと音楽の日々

プログラミングと音楽についての個人的な書き込みをしていきます。

私の生い立ち【新卒〜再就職】

私の生い立ちのIT企業での入社から退職まで、またそこから再就職するまでを書きました。

IT会社(1社目)

研修

研修では一月ごとに以下の事をやりました。

この頃は研修で学ぶことが楽しく、毎日仕事に行くのが楽しいと感じていました。
一方で新卒特有の右も左も分からない状態だった為、ちょっと自信がないこともありました。

またこの頃は家でプログラミングをする事が極端に減り、ベースの練習に打ち込むようになります。
この頃バンドを組んでみたいと思い、初めて3ヶ月程度でしたが、ネットでバンドの加入記事に応募しました。
しかし技術力がまだまだ低かった為、加入できませんでした。
そんな中丁度専門学校時代の友人がバンドを始めようとしており、ベースが揃えば始められる状態でした。
相談の上私が加入することができ、このバンドを2008年の3月頃まで続ける事となります。

今思うとこの時期にベースに熱中したのは仕事と一人暮らしのストレスからの逃避だったのかもしれないですね。

証券会社のシステム開発への派遣

研修が終わり証券会社のお客様向けのWebサイトの開発に派遣されました。
入る前の客先との面談や同じ会社のリーダーとの面談では特に問題ありませんでした。
開発に加わり、1番初めに苦労したのがテスト仕様書の作成でした。
そしてこのテスト仕様書の作成の際に、私の面倒を見る事になった新卒3年目の先輩が「〇〇くんの思う通りで良いから」と言われました。
サンプルはあったものの、私は当時テスト仕様書の作り方を知らなかった為作っては先輩に指摘を受ける事を繰り返しました。
また、先輩があまり活発にコミュニケーションを取れる方ではなく、当時は「先輩はコミュニケーションをとるべき」と勝手に私の中にあった理想の先輩像とのギャップが大きかったです。
その為怒りの感情が派遣されてから1ヶ月ほどはものすごく高かったです。
またその態度が露骨に出ていた為、先輩とは距離が空いてしまいました。

上記のような状況の中、派遣先の別の会社の方からダーツに誘われました。
ダーツをやった事はなかったですが、他の会社の社員の方と交流を持つことが面白そうだと思い、参加しました。
しかしここで起こったのが途中から電池が切れたようにテンションが全く上がらず、他の人と全く話せなくなりました。
そしてこの時を機に常に強い憂鬱感に襲われ、派遣先に向かうことが非常に怖くなります。

憂鬱感が強く出てからは仕事の能率が一気に下がりました。
その為同じ会社のリーダーから怒られる機会も非常に増えました。
しかし自分ではもうどうにも回復できなかったです。
またこの時、憂鬱感の強さについて「社会人なら当たり前のように感じるもの」と思っていました。
「それに耐えられない自分は弱い」とも思っていました。
その為精神科への通院などはこの時は頭にありませんでした。

一方でバンド活動は楽しかったのですが、友人の前で無理して明るく振る舞っている状態でした。
すごく無理をしていたわけではないので、年末くらいまでは特に変化は感じなかったそうです。
同時に仕事に対する嫌悪感からベースを弾くことが生き甲斐になっていきました。
また8月頃にバンドのボーカルの先輩からスタジオでのライブの出演を誘われ、初めて人前で演奏する事になります。
あまり記憶には残っていませんが、楽しかったような感じは覚えています。

憂鬱感の方は秋になっても消えず、なにかのテレビ番組でうつ病の事を知り最寄駅側の精神科を受診します。
しかしこの時5分にも満たない問診で病名も告げず精神薬を処方された為、医師に疑念を抱き結局薬は飲まずに捨ててしまいました。

冬頃になると憂鬱感と共に希死念慮も出始めました。
しかし当時12月にスタジオライブをやる予定だった為、「そこまでは頑張ろう」というのが生きる目標でした。
そのライブが終わった後はさらに憂鬱感が加速し、後にバンドメンバーにも「やる気がないように見えた」と言われました。

またこの年の年末に友人に誘われ、徹夜でコミックマーケットに行きました。
寝ないで行った為終わった後体調を崩し、友人に断って帰宅しましたが、後に友人が食べ物を持ってきてくれた事が嬉しかったです。
その後寝て年を越した事が少しだけショックでした。

年が明け仕事とが忙しくなり、1月は残業が40時間になりました。
今では40時間の残業は多い方ですが、この時も私の中では「IT業界で40時間の残業は少ない」という思い込みがありました。
そして2月に入り仕事にどうしても行く気が起こらず仮病で休みました。
憂鬱で何もすることが出来ず、希死念慮から雨が降ってる中傘をささず家のベランダで1時間ほど過ごしました。
この時限界を迎えており、母親へ「助けてほしい」と連絡を入れました。
その後すぐに母親がうちに来て過ごしました。

休職

一時的には会社に行けたもののすぐに出社への恐怖感が出るようになり、有給ももう残っていませんでした。
その為この時会社に連絡せずに携帯電話を家に置いて京都へ逃亡しました。
元々旅行で行く準備などしていないので、財布と着るものしかない状態でした。
夕方ぐらいに浜松で落ち着き、親に電話しそのまま大阪のネットカフェで一泊しました。
その翌日京都の天龍寺をめぐり、日本庭園が綺麗だと感じた事を今でも覚えています。
その後自宅へ帰りました。

無断欠勤を行った為、会社からは一時的に休職を行う事となりました。
また当時は自分が精神病だと言う事を気が付いていませんでした。

その後一月ほど休職し復職の意思を会社に伝えようとしましたが、携帯電話の前で2時間ほど固まってしまい、電話できませんでした。
その事を母親に相談したところ一度精神科を受診したほうが良い旨アドバイスがあり、精神科に通う事となります。

精神科ではうつ病と診断されました。
しかし色々な抗うつ剤を試しても一向に改善せず、体が動かず気力も湧かず、ただ時間が過ぎるのを待っており、時間が過ぎないことが非常に辛かったです。
本来はあまり興味がなかった事もありますが、暇つぶしの為にアニメを見ることすら面白さを感じられず苦痛でした。
その後2ヶ月ほど経ってから医師の方から抗うつ剤ではなく精神安定剤に処方が変わりました。
そうすると病状が回復しました。
その後は自宅で療養することができた為、8月末で休職を終える事になります。

復職

時短勤務で、徐々にフルタイムに戻していく勤務スタイルをとりました
またPHPの学習を行い、オープンソースで公開されているSNSツールを活用して、社内SNSの構築を行いました。

社内SNSの構築が終わった後は交通機関マイレージポイントの管理サイトのテストを担当しました。
この時年末にバンド練習をする予定が入っていましたが、休日出勤する必要があり、その日は苛立って仕事をしていた事がありました。

復職した頃からバンド活動を再開し、元々組んでいたバンドの一部のメンバーと再結成したバンド、活動の中のつてで知り合ったバンド、運転免許の取得など休日がすごく忙しくなっていました。
その為もあってか気が休まらない日々を過ごしていました。

年が明けてからは仕事の方はAndroidの調査開発を行なっていました。
今思えば特に目的がなかった事もありますが、モチベーションが上がらない日に突発急をする事がありました。
そんな事もあり3月頃に社長より「突発休があるようだとまだ完全に治ったとは言えない」と伝えられ再度休職する事となります。
また復職の条件として「薬を飲まない事」という無理な条件がでました。
この辺りから「会社に弱味を見せてはいけない」という思いや、「完璧でないとクビになる」などの思いができて来たように感じます。

またこの直前の話になりますが、勤怠があまり良くなかった為、社長より会社で契約しているカウンセラーに相談する事を勧められました。
そしてカウンセラーの勧めで主治医を変える事を勧められ、当時の主治医にその旨を話したところ「非常識だ」と怒られたのを覚えています。

後で聞いた話ですが、私が証券会社で調子が悪かった際にリーダーは「全く気が付かなかった」と言っていたそうです。
確かに派遣されすぐに調子を崩した為、特に変化を感じなかったのかもしれませんが、自身の保身に走った感じを当時は受けました。

ここから半年ほど休職し、休職期間満了で辞める事が決まりした。
その間週末になると友人とゲームをして過ごしたり、車の免許の取得に励んだり、同じ時期に仕事をしていなかった友人とゲームセンターで遊ぶような日々が続きました。
しかしお金があまり無かったので金銭的な不安は結構大きかったです。

無職期間

会社を退職後すぐに転職活動に移りました。
しかし当時リーマンショックの後だった事もあり、求人倍率は恐ろしく高い時期でした。
その為1日に2〜3件面接を受ける事が連日続く事もよくあり、転職活動そのものが大きな負担になりました。
その為面接を無断ですっぽかす事が起こってしまい、また希死念慮が出てしまった事から薬の一気飲みをしてしまいます。
翌日すごくフラフラの状態になりながら病院へ通院したのを覚えています。
また今考えれば「よく入院にならなかったな」とも感じています。

上記の為転職活動も途中で中断しました。
その後母親の勧めで音楽系の専門学校への入学を勧められました。
ただし生活費や学費を自分で工面する事が前提となっており、今考えるとなぜ勧めたのかよくわからないと感じています。
当たり前の話ですがお金の工面が全くできない状態でしたので、専門学校への入学も断念しました。

就職もそれ以外の道も難しく、失業保険による生活費の工面も限りがありました。
その為生活保護を検討するようになります。
生活保護は基本的には家族に一度自分を養えないか確認をする事が必要になり、当時父、母、弟はそれぞれ別々に暮らしていた為個別に確認をとりましたが、最初は全員受け入れられないとの答えでした。
その後父親と同居している祖母から、一緒に住まないかと誘いがあり、父親と祖母と同居する事が決まります。
この時母親からは父親と一緒に住む事を猛反対されました。
反対された時から子供の幸せではなく、自分の不快感を避ける事を優先する母親だと感じました。
その為この時期から母親へはあまり良い感情を持たなくなりました。

その後父親と一緒に住む事となりますが、引っ越しのストレスもあってか調子が悪化し、周囲への攻撃性を抱くようになります。
また「自分が多重人格なのではないか」という妄想に囚われるようにもなりました。
その為医師に相談し、同意の上精神病棟へ入院する事になります。

入院中は色々な人がおり、人間関係も面倒なので事が多かったです。
また面倒見が良い人もいたので比較的辛い感じはありませんでした。
また1番辛かったのはやる事がなく同時間を潰すかを考えなければならないのが大変でした。
その為当時はゲームの企画や絵の練習などをしていました。
また、この入院を機に病名が「統合失調型感情障害」という病名へ変わりました。
しかし現在でもこの病気がどんな病気か具体的にはわかっていません。

退院後は少し調子が悪くなったものの、病状は徐々に回復してきました。
その為退院から3ヶ月経った頃に再就職を考え、障害者向けの就労支援センターに行きました。
働く事に少し不安があった事と、偶々目についた事で精神障害者向けの就労支援プログラムへ参加する事となります。

就労支援プログラムでは病気への対処や、仕事中に実際にあり得そうな場面を想定し行うSSTを学びました。
また、実際にスーパーや事務、また書類整理などの仕事で就労体験を積みました。
最後にOfficeの扱い方を学び、プレゼンを行いました。

就労支援プログラムを修了後は、再び就労支援センターで仕事を探しました。
そこでちょっと遠方だったのですが郵便局での障害者雇用があった為、そちらの面接を受け入社する事が決まります。

またこの時期もバンド活動を行なっていました。
この時は知り合いのドラマーと高校の友人がボーカルをやり、ギターは度々変わっていました。
練習ばかりであまりライブに前向きで無かった事と、練習に対するモチベーションが低いメンバーが多かった為、常に私はフラストレーションを溜めながら活動していました。

振り返り

社会人になってからは相手に求める理想が高すぎており、それが満たされなかった事がきっかけで鬱状態に入ったと感じています。
自分の中での「こうあるべき」が強すぎたと感じています。
また同時に会社が合わなかったとも感じております。
後で知った話ですが、とある事情で本来であれば私が入社した年に4名新入社員がいるはずでしたが、私以外の3人は内定取り消しになったそうです。
また私の1年後に入った新卒も能力不足のため退職させられたそうです。

入院は結構大きな人生の壁でしたが、この入院を機に自分以外の合う薬が見つかったのはよかったと感じています。

また就労支援プログラムのスタッフの方は非常に面倒見がよく、今でも連絡をとっています。
また同期ではありませんが、このプログラムのOB会で知り合ったメンバーとは今でも交流があります。

また同時にバンドも並行して動いており、バンド活動が人間関係の支えになったとも感じています。
当時組んでいたバンドは喧嘩別れに終わってしまったものが多く、今では交流はありませんが、良かったと感じています。

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